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子どもの頃の「将来の夢」って変わるもんですが、
ワタクシの小学生の頃の夢は「先生」でした。
サッポロニシコーに進学して、キョーイクダイサッポロブンコー(当時)卒業して、センセーになろうと思ってました。
希望の教科は美術。絵を描くのが好きな子どもでした。

中学の頃、制服が(というよりスカートが)嫌だ、という理由で私服の高校を受検しました。
サッポロニシコーです。
成績的には「均せば圏内」だったけど、ムラがあるのを心配されてか、担任のセンセイからは1ランク落とすことを強く勧められましたが、こちらも強硬に希望してニシコー受けました。
なぜなら、1ランク落とした高校も、滑り止めで受ける私立の女子高も、制服でスカートはかないとなんないという点では同じだったからです。

この時期は、ワタクシよりもむしろ母の方が心痛でよれよれになってまして、すべりどめの私立に合格したあとも、
そんなに強くニシコーを希望しているのだったら中学浪人させてあげたほうがいいだろうか、と悩んでいたようです。
親戚なんかにもちょっとこぼしたりしていたらしく、
「オータニ高校入ったんだったら、オータニ短大に行けるし、したっけいいとこ嫁に行けるし、御の字でしょう。」
などと言われたそうで、親戚もワタクシがニシコーに入れるとは露ほども思っておりません。

そんなわけで、合格発表を見に行ったワタクシが、家で待っていた母に
「なんか受かったみたい」
と報告いたしましたところ、
「受かりたいあまり幻覚を見ているかもしれないから、今からお母さん確認しに行くから、まだ誰にも受かったとか言わないでね。」
と厳命されまして、母がわざわざ合格発表を見に行った、というのもネタではなくて実話です。

そこまで「受かるわけがない」と思われながら運良く入れた高校だったので、その中では最下位に近いあたりの成績だろうと予測しておりましたが、
入学して最初のテストの後、廊下にはりだされた成績上位者の順位表に自分も入ってたのでものすごくびっくりしました。
国語にいたっては学年1位でした。てっぺんに毛筆で書かれた自分の名前を発見したときの衝撃は忘れられません。
その後、全国模試を受けたら国語の偏差値が80台で、まずそんな偏差値が存在することに驚愕しました。
いったい、あの「1ランク落とせ」は、なんだったのでしょうか。

とか書きましたが、担任としては「幾狭はニシコーなんか行ったら勉強しないで遊ぶに決まってる」と思ったのでしょう。
ご明察ww

高校生になっても成績のムラは治らず、高二のとき進路希望調査に(ほっかいどの進学校のセイトとしてはとりあえず)「ホクダイ」と書いたら担任に「この成績でなにを無茶なことを!」と怒られ、次のテストで急に点数を上げたら結果のプリントに担任の文字で「ホクダイ可能性あり」と大書されてて吹いたことがあります。
……今考えると、たいへん厄介なセイトでした。

さて、そんな憧れの高校で、ワタクシは図書局に入りました。
高校の図書館には、司書のKさんがいらっしゃいました。
かなり長い世代にわたり、我々ニシコー図書局員にとって忘れがたい方です。
ワタクシは、教員もいいけどむしろ図書館司書、できたら司書教諭になりたいなぁ、と思うようになりました。

ところで、「司書か司書教諭か教諭」というと、一見わりと隣接した希望進路のように見えますが、実際はまったくちがうルートで免許をとるものなので、大学受験までにどれか一つに絞らないとけっこうやっかいなことになります。
(友人で進路面談の時に「歯科医かボクサー」と言った伝説の男がいるので、それと比べればまだアレですが……。)

当時、ホッカイドーキョーイクダイは教員養成系の大学なのに、司書教諭資格はとれませんでした。(※今はとれます)
ただ、教員になってから夏休みとかに講習を受けて司書教諭資格をとる道は、当時からありました。

司書資格がとれる私立の短大は、市内に複数ありました。
希望の職業だけ考えるなら、そちらへ進学するべきでしょう。
でも、できたら国立の四年生大学に行きたいなぁ、と思ってましたら、おあつらえむきの大学が、内地にありました。

トショカンジョウホウダイガクです。

総合成績の偏差値で考えると、そこは圏内でした。
ワタクシは国語と生物と倫理・政経では学年順位がほぼ一桁でしたので、共通一次の点数なら問題なかったのです。
ところが、トショカンジョウホウダイは二次試験の受験科目が苦手な英語と数学でした。
しかも数学は、文系クラスで受ける授業の範囲をちょっと超えているようでした。「代数幾何・基礎解析」のはずなのに、基礎解析の問題が微妙に「微分積分」まで履修してないと苦しいらしいという話で。
それでもたぶん、満点とれないと入れないってわけでもないですから、基礎解析までをきっちり学習していたならば、文系クラスの人間でも無理ってことはなかったのです。

基礎解析までをきっちり学習していたならば…………orz

その前年くらいからだったと思うのですが、大学受験の日程が変わって国公立大学を2校受けられるようになってました。
日程的に、ホクダイかホッカイドーキョーイクダイかの選択になったわけですが、第1志望がけっこう危ない橋なのに第2志望がさらにタイトロープなホクダイというのもアレですし、もし教員の方になるとしたらキョーイクダイ出てた方が有利なので、そちらを受けることにしました。
教科は国語です。
美術で受けるには絵が下手だ、といういことには、さすがに高校生くらいになると自覚できます。

二次試験に小論文がありますので、高校でやってくれる小論文講習を受けました。
講習の個人面談で指摘されたのが、「好きな論題と苦手な論題で、論文の出来に差がありすぎる。」でした。
好きな論題で書いたときはたいへん良い評価で次の回の講習のテキストに引用されたりしたのですが、苦手な論題のときは支離滅裂で自分でも何書いてあるんだかさっぱりわかんない有様でした。
ムラ全開。
キョーイクダイオープンという模試を受けたときは、まさに苦手な論題が出題されました。

そのときの小論文の偏差値は、25でした。

そんな偏差値が存在することに驚愕しました。

……ホッカイドーキョーイクダイを受けるのも、充分タイトロープでした。

他に司書資格のとれる私立の女子短大をいくつかと、なぜか(ほっかいど的には)お嬢様大学(ということになっている)フジ女子も受けています。
私立の方は特に問題なくすべて受かりました。
思い切り自慢しますが、短大の倫理はわかんない問題がひとつもなくてびっくりしました。たぶん満点です。

予想通り、トショカンジョウホウダイガクは当たって砕けました。
母がそのことを親戚に言ったところ、
「そんなとこ行くより、フジ女子出たらイイとこにお嫁に行けるから、絶対その方がいい。」
と言われたそうです。
ほっかいど民、内地の大学事情にうといため、国会図書館員を養成したりする大学が「そんなとこ」扱いです……orz

ここでも誰からもキョーイクダイに受かるとは思われておりません。
(学校内では、一部の教科で派手な順位だったために実際より成績がいいと思われていたため、キョーイクダイの受験会場で会った友達からは「あれ? 匠ちゃんこっちだったの? ホクダイじゃなかったの?」と言われたりはしましたが。)

ところが、キョーイクダイの入試本番では、心配していた小論文の論題が、これでもかというくらいワタクシの得意分野でした。
模試の小論文の偏差値が25だったとは思えないくらいすらすら書けまして、筆記試験はもともと圏内でしたので、合格しました。

なんかこのへんで、なんだか自分の人生が「小学生のときに考えた希望進路」のとおりになっていて、
その後そのときどきで進路先が変わりそうになっても、いつのまにか当初の予定に戻っていることに気づきまして、
ちょっと不思議な気分になったりしました。

というわけで第2志望のホッカイドーキョーイクダイガクサッポロブンコーに入学したわけなのですが、
これが前年度にサッポロ市内なのにサッポロの地図からはみ出る北の果てに移転したばかりでして、
同じサッポロ市内に住んでるのに通学に1時間半かかります。
ちなみにサッポロ-アサヒカワ間が特急で1時間20分です。

それまで近所の学校にしか通ったことのないワタクシには、これがえらい難関でした。
列車やら地下鉄やらバスやら乗り継いでその日の最初の講義に間に合うためには何時に家を出ればいいのか、普通は覚えるんでしょうけどワタクシは覚えられず、たいして難しい計算でもないのに毎回間違い、まっとうに大学にたどり着くことができません。
そして、僻地でバスの本数が少ないのにダイガクの近隣に2校も高校があるため、1校目の講義出るときはバスがスシヅメでした。
30分、スシヅメのバスに乗る根性がワタクシにはありませんでした。

そして、高校までは、授業さえ真面目に聞いていればテストでそれほど困ることはなかったので家で勉強する習慣がまったくついていなかったのですが、大学では授業を真面目に聞いていればペーパーテストで単位をとれる講義の方が少数で、ほとんどの講義は授業外に時間をかけてレポートなどを書かなければなりません。
複数のレポートの締切が重なったときなど、端から手をつけていけば良いのにまず何からやったらいいやらさっぱりわからず、全部落としました。
大学の先生方からは、「幾狭はもしかして仮面浪人なのでは?」と疑われていたようですが、やる気がないわけではなくて、単に講義に間に合うようにバスに乗ったり締切に間に合うようにレポートを書いたりすることができなかっただけです。

あと、最前列真ん中の席がワタクシの指定席で、そこに座るのは一番居眠りをしづらい席だったからだったのですが、
そこに座っても度々居眠りをしてしまうので顰蹙をかっていました。
でも、古生物学とか家政学とか、別に受けなくてもいいのに興味があって受ける講義はその座席で熱心に講義を受けてテストの成績も良かったりするので、先生方の進級の会議の後などにそういった講義の他学科の先生から
「あなたのような真面目なセイトがなぜ……」
と言われたりしました。

そんなわけで、4年生の大学を卒業するのに、6年かかりました。

うちの大学では在学中、本免許の他に副免許をとるのが普通なのですが、ワタクシは最初から匙を投げていました。
しかし、自分のムラのある成績とか偏りとか、
あるいは学校の成績はむしろ良い方なのに提出物が期限通りに出せないとか、
好きなものに関する記憶力はすごくいいのにもの忘れが激しいとか、
ものの整理ができずに取り散らかすとか、
時間割を揃えるのが面倒で全教科の学習道具をつめた重いカバンを毎日持って通学しているのに忘れ物をしないことのほうが珍しいとか、
当時、まだ「発達障害」という概念はほどんど知られていなかったのですが、絶対自分は何かの障害をもってるという確信がありまして、
なんていう障害なんだろう? という関心から、「特殊教育学科(当時)」の講義を、あと教育実習に行きさえすれば免許をとれるくらい履修していました。

ただ、他の取得単位が足りなくて本免許の教育実習が最終学年になってしまったため、副免許の実習にいけず、特殊教育(現在のトクベツシエン教育)の免許は持っていません。

ところで、ワタクシが留年している間に、ヨノナカではバブルが崩壊しました。

同じ年に入学した学生たちが卒業する頃は、キョーイクダイを出ても一般企業に就職する人も多く、キョーインも現在より多く採用していました。

それが、2年後にワタクシが卒業する頃には、ほとんどの学生がキョーインサイヨー試験を受け、しかも採用の人数が減っていました。

そのせいだけではありませんが、以前にも書いたように、ワタクシはキョーインサイヨーシケンを9浪しました。
その間もほぼ毎年、臨時採用キョーインをやっていたので、経済面で困窮することはありませんでした。

1度、1年数ヶ月臨時採用がとぎれたことがありましたが、その間に無事に司書教諭資格を取りにいくことができ、しかも以前に同じ学校で一緒に臨時採用やってたちがう教科の先生が、国語で臨時採用の話がきたときにワタクシの名前を出してゆずってくれるという人間万歳な理由で無事に臨時採用に復帰できたりしました。ありがとうU先生。

1次の筆記試験で落ちたことはありませんが、2次の面接と、おそらくは小論文がネックになったものと思われます。

10回目の試験の小論文で、はじめて得意なタイプの論題が出まして、やっとまっとうな文章が書けた年に採用されました。
(あと、以前にも書いたことがあったと思いますが、9回目の不合格通知を受け取ったとき、それまであまりうるさいことを言わなかった母に一言「見合いしてみるか?」と言われたことは大きかったと思います。「背水の陣」感はすごかったです。)

正式に採用されると、司書教諭資格を持っているため、たいてい校務での係は図書担当になることができました。

何校か回った後に現在の学校に赴任しまして、はじめてトクベツシエン学級を担任しました。
免許はありませんが、大学で特殊教育を履修していたことは、基礎的な部分で非常に役にたちました。
ただ、もちろん20年近く前の知識なので更新が必要なことと、実務的なことがまったくわからないのと、また、この学校のトクベツシエンが他の多くの学校の場合と色々違っている点が多いことから、初年度は休日などにけっこうな数の研修を受けにいきました。
試行錯誤しつつ、最初の卒業生を出し、今年度はトクベツシエン学級の担任からは外れました。

今年度は、この3年間学級の方が忙しくて放置しほうだいだった図書係の仕事に力を入れたい、という希望をダメ元と思いつつ出したら、意外にも通っちゃいました。

とはいえ、学校の規模が小さいため、通常学級の国語とトクベツシエン学級の国語の他に、免許外の教科を受け持つことになります。
管理職からの最初の打診では、家庭科を持ってほしい、という話でした。
ものすごく苦手な教科ですが、いかんともしがたいガッコージジョーですから引き受けました。
他にこの学校に専門の先生がいないのが技術と美術で、どっちかというと家庭科よりそっちのほうがいいなぁ、とは思ったんですが、ワガママは言っていられません。

ところが、その翌日にまた管理職に呼ばれまして、

「ここ数年、免許外で美術を担当していたファルセット嬢先生(仮名)に今年度もお願いしようと思ったら、
ファルセット嬢先生から、自分は美術はもう限界で家庭科の方がいい、美術は幾狭先生の方が力があるし向いてる、
って言われたんだけど、申し訳ないけど家庭科でなくて美術やってもらっていいかい?」

と言われました。

ファルセット嬢先生、ナイスワガママ!

もちろん二つ返事で引き受けました。

というわけで、この4月から、かつて念願だったけど無理だろうと断念してた美術の授業を受け持っております。

免許外の教科だから「一から勉強しながら」ってことで、大変さは家庭科を持つ場合と変わらないし、授業時数は家庭科よりだいぶ多いわけなんですが、好きな教科ということで気分的には全然違います。

はじめて受け持つので、
「こ、これは先に指示しないで描き始めると、こういう描き方になってしまうのか!」
と経験値の不足を痛感することもしばしばですが、そのへんはキョーインになったばかりのころの国語の授業も最初はそうだったから、すこしずつ改善していくことができると思います。
毎時間新しい発見があるのは、それはそれで楽しいです。

しかし、ますます小学生の頃の「将来の希望進路」に回帰してるような気がするのですが、
ワタクシ、しらないうちにナニモノかと契約してたりとか、してないですよね……?
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先日、「境界線」をUPいたしましたところ、それを読んでくださった遠方にお住いの友人から感想をいただきまして、話の流れでさらに彼女の体験談もうかがえました。
ご本人より許可をいただきましたので、そのお話もUPさせていただきます。

古都で学生時代を過ごされた彼女は、
当初、台所トイレ電話共用、銭湯通い、という絵に描いたような下宿に住んでいたのですが、
4回生のとき、就職活動にマイ電話が必要になりました。
山沿いの閑静な住宅街に建つ割と古い学生アパートに、フツーに暮らすうち、
春も過ぎ、暖かくなってきたある夜。

金縛りというか、明らかに誰かが身体の上に乗っかって彼女の首をしめている苦しい感覚で目が覚めました。
生まれて初めてじゃあ~! というキョーフの中、お坊さんがお経を唱えている声がはっきり聞こえます。
耳元で響くバリトンのお経………。
うわあ~~流石古都~~~と、わけわからんことが脳裏をかすめながらもキョーフ一色。
何とか身体をバタバタさせて、ふっと消えてくれた時は心底安心されたそうです。

「もう昔々の話ですが、
今まで長生きしてきて、これだけ鮮明な体験はこれ1度きりなので、未だに忘れることができません。
さまよってるお坊さんだったのかなあ……(怖)」

と、彼女は語ってくれました。


友人のお話に触発されて、ワタクシも幼少時に聞いた「古都の怪異」の体験談を思い出しました。

話してくださったのは、ワタクシが子どもの頃に通っていたピアノ教室の先生でした。

先生は古都の出身で、大正生まれのモダンガールです。
教え方はとても優しく……むしろ、とてつもなく優しく、先生が声を荒らげたりするのをワタクシは聞いたことがありません。
ナマケモノのワタクシは家での練習をサボり放題で、バイエル上下を終えるのに5年かかっていますが、
それでも辛抱強く、ワタクシが弾けるようになるのを待ってくださいました。
(ちなみにウチの親はときどきキレて、危うく薪ストーブでバイエルを燃やされそうになったこともあります。
が、ワタクシが高校2年生のときに自分からやめると言うまで通わせてくれたので、やっぱり親も辛抱強いです。
お月謝が格安だったとはいえ……。)

レッスンの記録帳には几帳面な細かい字でその日の練習曲やアドバイスが書かれ、
そこに毎回貼ってくれるご褒美シールは、先生がカッティングシートをハサミで切って作ってくれたものでした。
2センチ四方の枠におさまる小さなシールは、シルエットだけで様々なものの特徴をとらえたみごとな切り紙で、
繊細なその細工を、先生は下描きもなしに四角いシートから切り取っていくのでした。

おやつに先生のお庭で採れたトマトをいただいたとき、ガラスのお皿にフォークをそえられたくし切りのトマトの
表面の薄い皮がむかれているのを見て、ワタクシはびっくりしました。
この世にこんなに上品なトマトの食べ方が存在することを、たぶんはじめて知ったと思います。
ときおりうかがう若い頃の思い出話からも、おっとり優しいけれど自我の強さをうかがわせるお話ぶりからも、
先生がそ~~~と~~な「お嬢様」だったのだろうということは、小学生だったワタクシにも感じられました。

お父さん、お継母さん、お義姉さんとの4人家族の中で最年少だった先生の呼び名は「じょうじょ」だったそうです。
漢字をまじえると「嬢じょ」と表記するのでしょうか。
便宜上、この記事では「嬢じょさん」と呼ばせていただきます。

……ここからやっと本題「嬢じょの奇妙な体験」です。

嬢じょさんが女学生のころ住んでらしたお家は、借家ながら4人で住むには持て余すくらい広く、
古都に似つかわしい由緒正しいたたずまいの立派なお屋敷でした。
塀や門にも瓦葺きの屋根がついていて、渡り廊下でいくつかの部屋が繋がれた大きな母屋には中庭があり、

そこに小さな「離れ」が建っていました。

ある日、嬢じょさんは、普段は使っていないその離れに一人で泊まることにしました。
女学校の発表会の英語劇に出演することになり、家族の眠りを妨げずに夜遅くまで練習しようと思ったためです。

熱心に練習するうちに夜も更けてきたので、嬢じょさんは床につくことにしました。

しばらくうとうとしていると、どこからかかすかな声が聞こえてきて、嬢じょさんは目を覚ましました。
耳を澄ますと、その声が読経であることがわかりました。
布団に横たわったまま顔をもたげて辺りを見回すと、足元の方の壁際に、
数人の小坊主さんが並んで座り、一心にお経を唱える姿が見えてしまったのだそうです。

嬢じょさんは反射的に頭から布団をかぶり、耳をふさいで震えながらその夜を過ごしました。
もちろん、翌日からは離れで英語劇の練習をしようなどとは思いませんでした。

発表会も終わって、だいぶ経って、そんなできごとも忘れかけた頃、
嬢じょさんのお継母さんが、離れの片付けをしているうちに夜遅くなったので、そのまま床をとって泊まったのだそうです。

翌日、朝食の席で、お継母さんはふさいだ様子で家族に話をしました。

「昨日、離れに泊まったらおかしなものを見たの。小さなお坊さんが何人も、お経をよんでいて……」

びっくりした先生は、思わず

「嬢じょも見た!」

と叫んだそうです。

こいつはただならん……、
ということになって、お継母さんが大家さんに、自分と嬢じょさんが見たものの話をすることになりました。

お継母さんの話を黙ったまま聞き終えると、大家さんは一言だけ、

「やっぱり……」

と呟いたそうで。
お継母さんは、その瞬間、全身に水を浴びたようにざーっと鳥肌たった、とおっしゃっていたそうです。

その後、そのお屋敷から御一家が引っ越されてからの話なので、嬢じょさんにとっても伝聞ということになりますが、
そのお屋敷は取り壊されることになりました。

建物を片付け、建材を運び出し、更地にするために土を掘り返すと、離れのあったあたりから、

小さな頭蓋骨が、ゴロゴロと出てきたのだそうです。


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