上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事に関するmixiの「みんなのつぶやき」とか拝見してると、
自分ができた問題までは
「これくらいは社会に出たとき必要」「常識」という認識で、
自分ができなかった問題については
「こんなのわかったって役に立たない」「使わない」
とおっしゃる方がけっこう多くて面白かったです。

この問題、解けますか?正解率73.1%「4×3-6÷2」

自分ももそんな傾向があるようで、

「義務教育までの数学は誰にでも必要な内容だけど、高校からの数学は進路や職業選択、大人になってからの生活の仕方によって必要度に個人差が出てくる。」

って認識なのは、中学までは数学得意だったのが高校でコケたからかもしれません。

(あっ、でも、ここに出てきた問題は全部解けましたよ。と、わざわざ記しておきます。)

これは個人の意見にしても漠然とした感覚的なものなので、もうちょっと考えてみると、

算数・数学には、「社会に出てから必要」な部分と、「論理的に考える力をつけていくのに適しているから学ぶ」部分があると思うので、

「小学校の算数については、学ぶ内容が社会に出たときに具体的に必要になるので、誰もが理解して定着するようにする。
中学校の数学については、論理的に考える経験が必要であるから、みんなきちんと学習して1度は理解しておく。」

くらいにじゃっかんの意見修正をしておきたいと思います。

中学の数学については、どんな職業につくかによっては大人になってから使わない場合も出てくるかと思いますが、筋道だてて考える練習ということの他、大人になって忘れてしまったとしても、もし必要な場面に遭遇したときに、1度理解しておいたものを思い出す方が、はじめて学ぶよりも容易だと思います。

ただ、数学に限らずどんな教科でも、どうしても得意・不得意に個人差はあるので、「誰でもここまでは必ずできるようになるべき」とまでは言えないです。
その教科が得意な人は得意な人なりに、苦手な人は苦手な人なりに、がんばれば理解できるところまで投げ出さずに努力することが、社会に出てから一番必要になる力なんじゃないかと思います。

そして、自分にはこれ以上理解できないことについては「不必要なこと」ではなくて、「社会の中で、得意な誰かが分担してくれていること」と考えるようにしたいと思います。
別のことでは、自分も「苦手な誰かのかわりに分担していること」があると思います。

……とか書くと、なんかすごい得意なことがあって大きく社会に貢献してますとか思ってる自信過剰な人だと思われそうな気がしてきたので(いや自信過剰なところはたしかにあるなんだけどそっち方面ではない)補足しますと、
別に人並み外れた素晴らしい能力があるわけでなくても、「ちょっとは得意かな?」くらいのことでも、ささやかにヨノナカに貢献できることはあるとか、そういうレベルの話です。
スポンサーサイト
先日、mixiのつぶやきネタで「中学校の思い出を教えて!」というのがあって、久しぶりに思い出したので書いておこう。

と、思っていたのですが、セイセキのしめきりとかツーチヒョーの提出期限とかでへろへろになっていたので、だいぶ間があいてしまいました。
以下、本文。

個人的な中学時代の思い出で最大のものといったら、いわゆる「いじめ」にあったことというか、むしろ腕力でいじめを解決してしまったことがあげられます。
雑な説明ですが、要約するとそうなってしまうかと思います。

中2のときのことでしたが、伏線は中1のとき。

中学校に入学してすぐ、違う小学校出身のKさんと友達になりました。
最初の学級活動の自己紹介で、双方ともマンガとかアニメとかが好き、ということを言ったのがきっかけで、すぐに仲良くなりました。

しばらくして、また別の小学校出身の友達が、ワタクシが1人でいるときにそっと近寄ってきて、

「Kさんて、小学校のころからずっといじめにあってたんだって。仲良くしてたら、幾狭さんも巻き添えくうかもしれないよ。」

と、耳打ちしてきたのでした。
ワタクシは、なんとなく周囲の様子からKさんがかなり深刻な村八分状態であるらしいことは気づいていましたが、

「ふ~ん、そうなんだ。でも、別にKさん悪い人じゃないよ。」

とだけ答えています。

その後もKさんとは変わりなく仲良くしていましたが、Kさんについて耳打ちしてきた人をふくめ、他の友人たちも特にワタクシを避ける様子もなく、「巻き添えを食う」という状況にはなりませんでした。

こう書くと、なんかまるでワタクシは自分が加害者になることはない高潔な人物みたいに誤解されるおそれがあるので但し書きをしておくと、小学校のころにはワタクシも、いじめをしたことがあります。
(ついでに言うと自分が村八分になったこともありますが、次の日にはもう終わってるようなやつで、「小学校の思い出は?」と聞かれても、とりたててそれを思い出すことはないです。)
ただ、自分が気に入らない相手なら特に周囲からいじめられている人でなくても単独でいじめたし、気に入らない人がいじめにあってたら何も考えずに自分もいじめたし、気に入った相手なら村八分にされている人とも仲良くしてました。
要するに、協調性が無いというだけの話です。

それでも、中学校に入学するにあたって、それまでの自分の来し方を反省し

「もう中学生になるんだから、やたらに暴力をふるったり人を攻撃するようなことはやめよう。殴っていいのは相手が殴ってきたときだけ。」

という、今思えばツッコミどころ満載の自戒を、ノートにわざわざ書き記しています。
そして、今思えば感心なことに、その自戒をちゃんと守っていたのでした。

中2でクラス替えがあったとき、Kさんとワタクシは同じクラスになりました。中1のときに同級生だった女子で、新しいクラスでも一緒になった人は、他に1人もいませんでした。
当時も、もしかしたら意図的にそうなったんじゃないかなぁ、とはちらっと思っていましたが、自分が学級編成する立場になってみると、これは「もしかしたら」じゃなくて「確実に」そうだっただろうと思います。

始業式の日、Kさんは欠席でしたが、小学校のときの同級生と久しぶりに話したり、初対面の人と自己紹介しあったりして、ごく普通のスタートをきりました。

帰りの学活のとき、担任の先生が

「欠席したKさんにプリント届けてくれる人いないか?」

と尋ねたので、

「はい。Kさんとは友達なんで、家わかります。」

と手を挙げました。

Kさんにプリントを届けた帰り道、春休み中に捻挫して治りかけていた足首をさらにひどく捻挫してしまい、翌日は欠席しました。

再度登校して、始業式の日に友達になった生徒に「おはよう」とあいさつをしたら、その生徒が悲鳴をあげて逃げていきました。
周りの生徒も、ワタクシが来たことに気づくと、ざざ~っと遠ざかっていきました。
親しげに近寄ってアイサツしてきたのはKさんだけです。

そんなわけで、新学年登校2日目にして、ワタクシとKさんはクラスで孤立することになりました。

当初は単なる村八分で、無視とか大声で悪口を言うとかだけだったので、放置していました。
もともと同調性が希薄で、友達がいない状態をそれほど辛く感じる性質ではありませんでした。
こんなヤツらと友達になる必要性はない、こっちから切ってやる、くらいの鼻息でした。

余談ですが、実際自分がキョーインになってみて、そういう考え方をするチューガクセーはかなり珍しいことがわかりました。
今でも「どうしてそうまでして友達を求めるんだろう?」と、とても不思議な気持ちになります。
この共感する力の不足は、キョーインとしてけっこう重大な欠陥です。
ただ、今では「ヨノナカの人々の多くは自分と比べてずっと繊細で人との共感を求める存在なんだ」ということをアタマでは理解していて、より細やかにセイトと接することのできる同僚の意見を重視することにしています。

さて、無視・悪口の期間はけっこう長引きました。

こちらとしては、無視されたから無視し返しただけの話で、まあ向こうから手を出してくるまではこちらから手を出さないようにしよう(自戒参照)、くらいに思っていたわけなんですが、どうやらおとなしい生徒だと誤解されたようでした。

悪口は容姿に関するものはともかく、だいたいは見当はずれで、テスト前に教科書を読み返していたら
「勉強したからってバカが治るかよww」
みたいな悪口を虚空に向かって叫んでいる生徒達がいたときは、危うく吹きそうになりました。
成績とバカかどうかは別の話かもしれませんが、言っているタイミングから言えばそういう深読みは不要かと思われます。
当時、我々の中学校ではテストの順位が廊下に張り出されることはなく、得点通知表に自分の順位だけが書かれていたので、彼らはワタクシがどのくらいの成績か知らずに、自分たちより成績が悪いものと思い込んでいたようです。
ワタクシも自分の順位しか知りませんでしたが、彼らより成績が悪い可能性はゼロでした。

悪口程度では実害はそれほどないとはいえ、こちらにも虫の居所の悪いときはあります。
たまたまこちらのご機嫌が斜めのときに、近くを通った生徒が

「うわ~! 穢れる! 幾狭菌がつく!」

みたいなことを叫んだので、その生徒の机に行って持ち物に触りまくったことがありましたが、その生徒も他の生徒たちもなぜか驚愕のあまり凍りついてしまい、なにがしかの報復を受けることはありませんでした。

この時期、本当に腹が立ったできごとは1つだけ。陸上競技大会の参加種目で、女子の走り幅跳びの希望者が定員を大きくオーバーしたとき、希望者どうしの話し合いで決めることになり、ワタクシ以外の希望者全員の合意によって最初からワタクシが外されることが決まっていたことです。
1年と3年のときは走り幅跳びで出て、いずれもワタクシが優勝しており、ここで外されていなかったらよほどのことがないかぎり3年連続優勝だったと思います。

孤立という状況は、周囲の人々を観察するには絶好の機会です。

ワタクシは、周囲の人々よりひとつ上のステージに立って、自分を含むクラス全体を上から見下ろしていました。
そして、江戸幕府が士農工商の下に穢多・非人という身分を作り、ヒンドゥー教がカーストの下に不可触賤民を作り、被支配者の不満が上に向かないようにしたのと同じ原理が、学級と言う小規模な集団にもはたらいている、という感想をもちました。
後に、荒木飛呂彦の『魔少年ビーティー』の「僕は精神的貴族に属する」という名セリフを読んだときに激しく共感したものですが、ビーティーに共感できるというのもなかなか稀有な体験ではないかと思います。

いじめが収束しかかっていた時期に、首謀者のうち1人の女子から、

「幾狭さんには見下されているような気がしてる。」

と(例によって虚空に向かって)言われたことがありましたが、

「へえ、気付いてたんだ。」

と思ったものでございます。

ただ、ワタクシに見下されるような状態を作り出したのは彼ら・彼女らなので、「だからいじめたんだ」みたいな言い訳は、まったくもって後出しジャンケンです。

この状況のおかげで気づいたことは、他にもありました。

音楽の授業中に合唱コンクールのパート練習があり、クラスの男子にピアノを弾ける人がいなかったから先生は男子について、小部屋でアルトの生徒だけで練習していました。
ワタクシはピアノが弾けるので、小部屋のオルガンでみんなに音取りさせるように指名されたのですが(当時はなんとも思ってなかったけど、今キョーインの立場で考えると、この先生、どうかしてます。)、もちろん密室の中で生徒だけですから、(例によって虚空に向かって)Kさんとワタクシの悪口を言い放っている人々がいます。ワタクシは無視してパートのメロディをオルガンで弾き続けましたが、それに合わせて歌っているのはKさんだけでした。
すると、

「何やってんの、あの人たち。バカみたい。」

と悪口を言っている人たちの中に、

「ほんと、幾狭さんは音取ってるからわかるけど、Kさん何やってんの。」

と、2人に向けられている悪口を、しきりにKさん1人に向けようとしている人がいました。

小学校3・4年生のときの同級生でした。

Kさん1人に泥をかぶせようとする方法に問題があるとはいえ、彼女は自分が巻き添えを食うかもしれないギリギリのところで、なんとかかつて友達だったことのあるワタクシのことだけはかばおうとしていたのです。

彼女とは小学校高学年以降は疎遠になっており、申し訳ないけど、そんなに義理がたい人だとは、この件があるまで知りませんでした。

そして、人間関係においては単純な動機しか持たないワタクシが、好き嫌いや善悪だけでは説明できない、もっと複雑で深遠な世界があることに気づく端緒となったような気がします。

そうこうしているうちに、周囲の生徒たちは、ワタクシが無視や悪口に対して委縮して無抵抗でいるわけではなく、単に問題にしていないだけだということに少しずつ気付いてきたのではないかと思われます。

男子生徒の集団で下っ端のやつらが、上の方のやつらに命令されるらしく、ワタクシたちを殴ったり蹴ったりしにくるようになりました。

ワタクシにしてみれば、暴力解禁です。

殴り返したり蹴り返したりしました。

彼らの計算外だったことには、ワタクシは並の男子生徒よりも腕力や脚力が強かったのです。
当時の体力テストの項目で言えば、50m走、反復横跳び、垂直跳び、背筋力、握力などで、同年齢の男子の平均より高い数値をだしていました。(ついでに言うと、立位体前屈や伏臥上体反らしなど、女子の方が成績のよい項目についても男子並みでしたが。)
単に筋力だけの問題ではなく、殴り合いの経験は小学生のみぎりに男子児童相手に積み重ねておりましたので、とりあえず男子集団の下っ端程度では相手になりません。

彼らは、走ってきて殴って走って逃げる作戦に切り替えました。

残念ながらワタクシの方が余裕で足が速かったので、とりあえず男子集団の下っ端程度では歯が立ちません。
っていうか、足の速さではボス格の男子より上で、彼を袋小路の壁際まで追い詰めて謝罪させたことがあります。

さらに作戦を変えたのか、ワタクシが登校すると、男子の集団が教室のドアを内側から押さえつけるようになりました。
毎朝力づくでドアを開けて入っていたのですが、ある日つっかえ棒でもしたのか、どうしても開かなかったため、ドアをよじ登って欄間をくぐり抜け、教室に飛び降りたところ、翌日からドアを押さえつける者はいなくなりました。

サシでは勝負にならないと思ったのか、あるとき、男子生徒が一度に集団で攻撃してきました。

(ヨノナカには、徒党を組んでかかってくるのは女子のやることで、男子はそんなことはしない、という迷信もあるようですが、そんなことはありません。小学生の頃にも、1人で複数の男子相手にケンカしたことが何度かあります。)

迎撃していたら、外野から突然声がかかりました。

「幾狭さん、危ない! 後ろ!」

ワタクシが振り返ると、後ろから蹴りを入れようとしていた男子が逃げていきました。

「幾狭さん、がんばって!」

女子生徒の中で、地味でマジメなグループの人々でした。
ワタクシは、声援に手を振って戦闘を続けようとしましたが、男子の集団は散開して逃げていきました。

その日から風向きが変わりました。
孤立していたKさんとワタクシは、その女子生徒たちのグループに迎え入れられました。
正確に言えば、グループのメンバーの中には明らかに迷惑がっている人もいたのですが、リーダー格の子とその親友の2人が、もう幾狭とKさんに味方することに決めてしまっていました。
また、そのグループの他のメンバーの中には、転校してきてまだ周囲になじめずにいたり、ちょっと孤立気味で浮いてしまっていたときにリーダー格の子に声をかけられて仲間に入った生徒もいて、彼女たちは同じようにしてグループにに入ってきた我々に対して好意的でした。

彼女たちは、以前からクラスにいじめがあることに心を痛めており、でもやっぱり巻き添えは怖くてなかなか声を上げられなかったようです。
思わず反射的に叫んだ

「幾狭さん、危ない!」

がきっかけになって、旗幟を明確にしたのでした。

傍観者はいじめに加担しているのと同じこと、とよく言われます。
結果的にはそのとおりなのかもしれませんが、個々に内面を見て行けば、どういう気持ちで傍観しているのかは人によって差があるのだろうと思います。

ワタクシは、グループのリーダー格の生徒から、

「なにがあっても堂々としている幾狭さんに、あこがれていた。」

と言われてびっくりしました。

ワタクシは、クラスを上から見下ろしているつもりでしたが、ひとくくりに見下ろしていた群れの中に、単純なワタクシよりはるかに高度な葛藤を抱えながら、それを乗り越えて他者に手を差し伸べようとする、見た目は地味で平凡な女子中学生の一団がいることにやっと気づいたのでした。

もちろん他のクラスメイト達が急に態度を変えたわけではありません。女子のほとんどは遠巻きに様子を見ている感じでしたし、男子の多くも手足が出ることはなくなったものの、以前よりずっと小声になった悪口を虚空に向かって呟き続けましたが、(そしてどうしても用事などがあるときは、なぜか敬語で話しかけてくるようになりましたが)、事態は少しずつ収束に向かっていきました。

ある日の数学の授業中、ワタクシはうっかりコンパスを床に落としました。

落ちた位置を確認して拾おうとしたら、隣席の男子生徒が、すっと屈みこんでそのコンパスを拾い、ワタクシに手渡しました。

ワタクシも含めて、クラス中がびっくりしてシーンとなる中、その男子生徒は何事もなかったかのように淡々と授業を受け続けました。

そのときまで見落としていましたが、それまでワタクシの隣席になった男子生徒はみんな、机を大きく離していたのですが、彼は最初から机をつけていました。

後々、会話する機会があって(彼は敬語ではなく、ふつうに話しかけてきました)知ったのですが、学級委員だった彼も、やはりクラスにいじめがある、という状況をなんとかしたいと考えていたようです。
「男子生徒」でひとくくりに見下ろしていたワタクシは(以下略)
それはまあ、後々の話で、

そのときワタクシは、ああ、いじめ終わったんだな、と漠然と思いました。

淡々とやり過ごしたり闘ったりしていましたが、気付いたら中2の3学期が終わりかけていました。


「つぶやき」の140字(でしたっけ?)では雑な要約しか書けなかったので、この機会に書き記しておきます。



最後に蛇足ながら。

自分で言うのもなんですが、ワタクシは強いです。
それはものすごく偏った強さなんだけど、とんでもなく強いです。
このblogに書いたことは、かなり特殊だと思います。

現にいじめにあって苦しんでいる子どもに、まちがっても自力で闘うことを強いないでください。

たいていの人は大丈夫、そんなことはしない、とわかっているのですが、

以前にたまたま検索で行き当たって読んだ知らない人のblogで
「パラリンピックを見て感動した。世の中の障がい者はもっと彼らのように強くなるべきだ。」
という無茶苦茶な主張を目にしたことがあるので、
広い世の中にはそういう人もいるかもしれないので、

念のため。
前回「さいご」というタイトルにしたわけですが、
今回この「なんじゃこりゃ」日記シリーズの元になった件に関する自分の立ち位置について、さっき思いついた比喩があるので、オマケとして記しておきます。
この日記は、この件の本質とはまったく関係ない、ほんとのオマケです。
しつこくてスンマセン。

これ、自分が外野手として出場していた試合で起こった悪質な違反について、試合を現場どころかTV中継や録画ですら見ていないスポーツ評論家が、その人の想像で勝手な解釈をして広めているのを見ているようだ、と思ったわけです。

で、同じ試合で内野手やってた人たちが
「いや試合で実際にあった違反はそういうのじゃないから、ウチのピッチャーほんとにひどいめにあったんだから、そういうウソつくのやめてよ。」
とか、実際に試合を見てた観客が
「え~、事実と違うよ。ちゃんと試合見てもの言ってよ。録画でもいいからちゃんと見たら本当はどうだったかわかるでしょ、見てみてよ。」
とか言ってるのに、
そのスポーツ評論家の書いた記事だけ読んだ人たちが
「せっかく良記事なのに水さしてるやつは何様?」とか、
「内野手、自分がミスしたって書かれたからキレてるんだろ。都合の悪いこと隠そうとしやがって」とか、
「スポーツ報道は発信者に色々な解釈があって当然で、ひとつの見方しか許さずに他を否定する姿勢は評論家を委縮させる。」とか、
「あの評論家が自分の記事をセンセーショナルにするために色々盛るのなんか周知の事実で、だれも本気にしてないってww 本気にするやつなんてよっぽど情弱ww なにムキになってんだよww」とか、
「スポーツ記事の見方が間違ってるんだって。批判してるやつは、件の評論家が本当に言いたいことをきちんと見ないで、見当はずれのことばっかり言ってる。」とか、
「そんなことでケガするピッチャー弱すぎだって、ちゃんと鍛えろ。」とか、
それぞれいろんなこと言ってるのに対して、
「俺は外野だったからちょっと遠くからになるけど実際見てたよ、内野手が言ってることで間違いないって。すくなくとも今回は内野手ミスしてないし。色々言ってる人、ほんとに試合見てからモノ言ってよ。球場に来いまで言わんから、せめて録画みてから。んで、ウチのピッチャーの傷口に塩をすりこむようなことやめてくれよ。」
って言ってる感じ。

そうこうしてるうちに、直接スポーツ誌に抗議した人がいてスポーツ誌から評論家に注意がいくという事態になり、スポーツ評論家が
「要するに悪く書かれたことに内野手がキレただけだろ。続報で『実はナイスプレーだった内野手』っての用意してるんだから黙って最後まで読め。」
とか言い出して、続報を読んだ人々が
「いやー、最初はひどいと思ったけど、シリーズで読んだら感動的な記事だったよ。」とか、
「内野手、早とちりしてやんのww 連載の最後まで読んでからモノ言わないと恥かくってのww」とか、
「内野手や一部の観客の圧力がかかって、せっかく球団の真実が暴かれそうになっていたのにうやむやになってしまった。この隠蔽体質なんとかしてくれ。」とか、
そういうことを言い出して、
内野手が
「いやあの続報も事実と全然ちがうんだけど。ウチのピッチャーつぶす気かよマジやめて。ほんと試合見てモノ書いて。」
と言い続けているのに、
「あれ? 内野手だまっちゃったね。都合悪くなって雲隠れ?」
などと言い出すヤカラがいるのに対して、
「だから内野手がいろいろ言ってるのは自分たちの都合がわるいからじゃなくて実際と違うからなんだって。続報の内容も見当はずれだから。色んな解釈があってもいいけど、それは試合見た上での話だろ。もうあのスポーツ評論家には何言っても無駄だと思うけど、みんなほんとに試合見てくれ。ウチのピッチャーにこれ以上ダメージ与えないでくれ。」
って、じりじりしてる気分。

……なんとなく雰囲気は感じとっていただけたでしょうか?


以上が今回の日記の内容で、
続きは拍手コメント返信です。
... 続きを読む
やっと「初回視聴して批判してて、最終回でも釈然としない」的な意見がニュース記事で取り上げられましたか。
今まで「初回見て批判してたけど良いドラマだったから撤回したい」「最初から擁護してて、やっぱり良いドラマだったじゃんクレーマーざまみろ」的な意見ばかりとりあげられてた感があったので、ニュース記事を発信する側全体のバイアスを疑ってました。


「明日ママ」最終回に疑問の声……「『最後まで見て』とはなんだったのか」


あのラストで、「感動しました」っていう感想ならともかく、「良い物語だった」という意見には眩暈がします。
映像作品の場合、心を動かす要素には、ストーリーだけでなくて役者さんの演技とか絵としての美しさとか、あるいは視聴者が求めているもの(見ている人にとって感情移入できる何か)とか、そういったものが重要なので、あれを見て感動する人がいるのはわかります。自分は感動できなくても。
でも、物語自体を評価するなら、そういったものをちょっと脇に置いて冷静に筋だけ追ってみることが必要です。

あれが物語として優れているとは思えません。

病んだ大人の面倒を子どもに見させるのが、まっとうな大人のすることかどうか、最初からわかりきってることです。

まず、現実的な話をすれば、どういう状況で会っているか把握した段階で、施設と学校が連絡取り合って、主人公を担任の家に出入りさせないようにすると思います。そうならないとしたら、よほど怠慢な施設と学校だと思います。

ドラマ向けにわかりやすくするために事務的なあたりを端折るとしても、施設長が個人的にそういう措置をとろうとするのが自然だと思います。すくなくとも「施設長が子どものためを思っている人」という設定でしたら。

それをあそこまで引っ張って、一度は担任夫妻に主人公を引き取らせるつもりになっている。

主人公にクライシスを作るための無理矢理の展開です。


このドラマについては以前にも日記に書いているので、繰り返しになりますが、
実の親から捨てられるという状況を想像して感傷に浸りたいなら、児童養護施設という実在するものから都合のいいところだけつまみ食いするような設定の借用のしかたをして実在する子どもたちや関係者に迷惑をかけるような作り方をしないでほしいし、
社会的な問題として取り上げたいなら、きちんと取材したり調べたりして、現実の子ともたちの悩みや児童養護施設の抱える問題に即した内容にするべきだ、
と感じています。

このドラマは、善意で解釈しても中途半端ですし、悪意で解釈するなら本来は前者でありながら後者を装ってあざとく話題性を作っているという印象を持っています。


この程度のドラマが「親から虐待される子どもたちや児童養護施設の存在に世間の関心を向けさせた」のだったとしたら、
世間があまりにも無関心だったことを反省すべきです。(自戒含む)
昨日、○ッカー部で部内の「卒業サッ○ー大会(っていうか屋内だからフッ○サル大会ですが)」が行われ、センセイチームの一員としてフル出場してきました。
試合に出るのが5人のところ、顧問は3人ですので、残り2人はセイトチームから借りるわけですが。

チームに1名ババァがおりますで、センセイチームは実質4人で試合をしたようなもんなんですが、若手と中堅2名の男性キョーインと助っ人セイトは通常の1.25倍走り回ってまして、セイトはともかく男性キョーインは疲労困憊。
そしてなぜか客観的にはたいして動いていないはずのワタクシもヘロヘロでございまする。
でも楽しかったです。

試合前のパス回しのときに、男性キョーイン陣はババァのワタクシには手加減した優しい球をくれたんですが、セイトは幾狭センセイは強い球でも受けられるのは知っているので他の人と同じような球をくれました。
試合中は、男性キョーインはワタクシを気遣ってよほど受けやすい安全な位置にいるときにだけパスをくれたんですが、セイトはちょうどいい位置にワタクシがいると普通にパスしてくれました。
大人からの気遣いも、子どもからのわりと普通のメンバー扱いも、どっちも嬉しかったです。

さて、そんなふうにヘロヘロになって帰宅した昨日、本宅の更新をおこないました。

昨日更新というか、ページ自体は昨日作ったんですけど、UPしようとしたらFTPが不調で、
設定とかいろいろいじってるうちに寝オチしてしまいました。

というわけで、実際UPしたのは今日ですが、更新日時は昨日になっております。

TOP写真は2月に撮ったものですが、3月に入ってもこんな風景です……。

PA0_0057.jpg PA0_0056.jpg PA0_0055.jpg PA0_0054.jpg PA0_0053.jpg

今回更新のメインは雑文の『俺は女だ!』シリーズです。
18~20話と、いっきに3話分UPいたしました。

このネタ、なかなか尽きてくれません……
最初の2話くらいまで見たあたりで、イラついて感想を日記に書いてしまったため、わけわかんないギム感でなんとなく最後まで見ないとなんない気分になってネット配信で見続けてしまった某ドラマでしたが、「方針の変更が反映される回」とおぼしき第8回を視聴した感想は

「クレーム→書き直しで気分を害した脚本家が不貞腐れてわざとめちゃくちゃな展開に書き直したんだろうな……。」

だったんですが。


『明日ママ』最終回目前で“号泣”祭り!? 「初回の酷評を撤回したい」「クレーム団体は反省しろ」の声も

……評判いいんですか?
(いや、こういう記事って、筆者にとって都合のいい声をひろいあげて書きたい結論に持っていくもんなんだろうけどさ。)

たとえ学芸会のしょぼい演劇でも子どもが熱演してたらたいていの大人は感動するもんで、ましてや選び抜かれて厳しいレッスンを積んでいるプロの子役が全身全霊で演じているわけでしょうから、それに持って行かれている人は多そうな気がします。
そういう役者さんの演技も含めて総合的に鑑賞するものとはいえ、ストーリーだけとりあげてみれば学芸会の演劇以下だと思うなぁ。

いや、別にストーリーと演技に分けて考える必要があるわけではないので、子役の演技に感動して号泣するのは別におかしいとは思わないのですが。
ただ、この回を見て、「ドラマに批判的な人に対して勝ち誇っているような人」は謎だなぁ。

以前に書いた感想は自分の身元とかを特定できそうな要素もあるので、カギつきでupしていたのですが、要約すると、

このドラマは、「図太くてちょっとダーティなところもあるけど、それは過酷な運命から身を守るための武装で、本当は仲間のために体をはって闘える優しさと強さを持った、たくましくてカッコイイ少女ヒーロー」を描くところをめざし、そのための都合の良い背景として児童養護施設というイメージを利用しているように思える。
実際に児童養護施設に在籍している子どもたちや勤務している職員や里親をなさっている方たちを比較的身近に見ている人間としては、このドラマにリアルさを感じない。
リアルさをめざさず、感傷にひたれて刺激的なストーリーにするのは、それはそれでアリだと思うが、それなら「現在」「現実に」存在していてなおかつ実状を多少なりとも目にしている人の少ない「児童養護施設」を舞台にして「現代の社会に対する問題提起」を装うべきではないと思う。
もし本当に問題提起をめざすのであれば、しっかり関連する資料を閲覧したりきちんと取材をしたりして、フィクションであっても現実の子どもたちや関係者の抱えている悩みや問題に即した内容にしてほしいと思う。
子役は熱演しているだけに、ストーリーが残念だ。
1話目で里親のところから逃げ帰ってきた子どもが、里親が迎えにきたときに施設長の背中に隠れる描写を見て「実はこの施設長がイイ人でしたオチじゃあるまいな」と思ったのだが、
2話目で施設長が、自分が捨てさせたはずの「ママの匂いがするシャンプ―の空き瓶」を自分で拾ってくる展開を見て眩暈がした。

という感じのものでした。(って要約だけで既に充分長いですが……)

おそらく路線変更したであろう8話目まで見ても印象変わらず。
むしろなんというか、たとえば批判的な感想を述べている職員の方たちに対して、
「要する自分たちをイイ人に描いてほしいんだろ。」
的な雑な直しをいれているようにしか見えません。

いやまあ、もともと路線変更する前から(それとも本当はしてないのかな?)「実はこの施設の職員の人たち、イイ人だったんです。」にするつもりではあったんでしょうけど、
脚本を書いた方の考える「イイ人」って、
「本当にその子どものことを愛してくれる里親のもとに行くためには、かわいいペットのように媚を売る練習が必要だと考えるような人」なんでしょうか。

リアルではないと言いながら、どのへんでそうと感じるのか具体例をまったく書かないのもアレなので、一応ひとつあげておきます。
ワタクシの見ている狭い範囲ではありますが、色々な立場の方の数多くの感想の中の1つとして受け止めていただければと思います。

子どもたちを取り巻く人々の中には、はっきりした偏見をもっている人もいるし、本心から差別をしない人もいます。差別していないつもりの人もいるし、偏見を持っていることを表には出さないようにしている人もいるし、親身になって悩みをうけとめようとする人もいるし、上から目線で同情する人もいます。こんなことを言っている自分だって、実際仕事で接するようになる前は関心が薄かったと思いますし、直に接するようになってからは気づかずに子どもを傷つけていることだってあるかもしれません。
児童養護施設に在籍する子どもの中にも、明確に差別的な言葉を面と向かってぶつけられたことのある方もいれば、そういう経験はなくても仲の良い友達が悪気なく発した無神経な言葉に傷ついたことのある方も、大人の態度が施設で暮らしている子どもと親元で暮らしている子どもで微妙に違うと感じたことのある方もいらっしゃるかと思います。
しかし、このドラマに出てくる「差別的な人」の言動は、すべてわかりやすく、画一的です。

TV自体家に置いていなくてドラマをほとんど見ることがなく、この番組もなにがしか仕事に影響が波及しそうな内容だなぁ、というのがなければ見ていなかったと思いますが、ここまできたら一応最終回まで見るつもりです。
ただ、今のところ最終回でどんなどんでん返しがあったとしても、自分の気持ちのうえでのどんでん返しはまずないだろうな、と予測しています。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。