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昨年末、遅ればせながら『The Indifference Engine』『虐殺器官』を読んで、

けっこう書店でも目についてたのになんでもっと早く読まなかったのか

と後悔し、続けてすぐ『ハーモニー』を読みました。

こちらはさらに惹きこまれて一気に読みましたが、以下は読んでいるときの切迫した気分とは無縁に、だらだらと感じたことを書きつづります。
要点を簡潔に書いたりするつもりはありません。
あちこち脱線します。

というか、これ最初レビューに書こうと思ってたけど、あまりにダラダラした文章になりそうだったので、後でレビュー用に簡潔に要約する予定で、こっちは思い切ってダラダラ書きます。


冒頭の部分を読んだところで、

子どもの頃、仏教の「極楽浄土」がどういうものか知ったときに、
「それは退屈そうだな」
という感想を持った

ことを思い出しました。

同じ天国的なものなら、北欧神話のヴァルハラ、汲んでも尽きない酒と食べても無くならない料理、何度抱いても処女である美しい女たち、宴に飽きれば武器をとって殺し合いに興じ、終われば生き返ってまた宴会、そっちの方が楽しそうだなぁ、と。

でも、それって仏教でいえば等活地獄と似ています。

まあ、自分は悟りもひらけないし勇敢に闘って死んだりもできないので、極楽浄土にもヴァルハラにも行けませんが、それは置いといて。

ある人にとっての天国は、別の人にとっては地獄なのかもしれません。なぜならば、



と、普通に続けようとして気づいたけど、この続きはある意味ネタバレになるので、たたんでおきます。
回避したい方はこれ以上読み進めないでください。スミマセン。
既読の方、ネタバレ気にしない方、続きを読まれる場合は「Read More »」をクリックしてください。

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2012.09.24 こどものころ
親からの本の与えられ方が「段ボールに何箱」単位でした。
今おもいかえすと、たぶん日販とか東販とかの箱です。

好きで忘れられない童話は?


『もちのまと』…絵本でした。

角髪に結った人々の群れが放浪の果てに草原にたどりつく。
人々はその場所を安住の地に定め、開墾して水田をつくった。
よく肥えた土地で天候にも恵まれ、人々は餅をついて豊作を祝った。
御馳走に飽いた人々は、たわむれに餅を的にしたてて弓矢で射た。
矢が当たった瞬間、餅の的は白い鳥になって飛んでいった。
以後、その土地はいくら耕しても米はとれなくなった。

ラストのページに文字は無く、もとの荒涼たる草原に戻った土地から去っていく人々の小さくなった後姿が印象的でした。

「たべものを遊びにつかって無駄にする」ことにたいする嫌悪感を、がっつり植え付けられたお話です。
大好きだった『8時だよ、全員集合』を、「パイ投げ」以降見ていません。


オスカー・ワイルド『わがままな大男』

わがままな大男が友人の人食い鬼のところに遊びに行っている間、子どもたちは大男の庭で幸せに遊んでいた。庭は花と緑と小鳥のさえずりに満ち溢れていた。
帰宅した大男は、怒って子どもたちを追い出し、庭を塀で囲んだ。大男の庭は、冬になった。庭は雪と霜に覆われ、大男はいつまでたっても春が来ないことを訝しんだ。
ある日、突然、庭の木々に花が咲いた。一本の木に一人ずつ、塀の小さなすきまから入ってきた子どもたちが登っていたためだった。大男は、それがたいそう美しい眺めであることに気づいた。
しかし、一人だけ小さすぎて木に登れずにいる子どもがいた。子どもは泣きながら木の周りをめぐっていた。大男が小さな子どもを抱き上げて木の枝に乗せると、小さな子どもは大男にお礼のキスをした。
大男は塀を打ちこわし、庭を子どもたちに開放した。美しい庭で子どもたちと遊ぶのが大男の楽しみとなった。しかし、最初に大男にキスをしてくれた小さな子どもとは、その後いちども会うことがなかった。大男と仲良くなった子どもたちの誰も、その子のことを知らなかった。
やがて大男は年老い、子どもと一緒に遊ぶことはできなくなった。それでも、遊んでいる子どもたちを眺めるのが、大男のなによりの楽しみだった。
ある朝、庭に出た大男は、一番会いたかったあの小さな子どもと再会する。しかし、子どもの両手足には、釘を打ちこまれた傷があった。
「お前にこんなことをした奴は誰だ! そいつを殺してやる!」と激怒する大男を、小さな子どもは「これは愛の傷だから」と止める。
そして小さな子どもは、大男に告げる。
「あなたは昔、あなたの庭で僕を遊ばせてくれた。今度は、僕の庭にあなたをお招きします。」

……もはや「粗筋」って長さではないですが、これはこれ以上削れねーっす。「僕の庭」が何なのかは、小さな子どもの正体とともに説明不要かと思われます。
いかん、入力してたらまた目から謎の水が……
オスカー・ワイルドの童話では、他にも『幸福な王子』とか『漁師とその魂』とか『ナイチンゲールと赤い薔薇』とか、好きなのあげてくとキリがないです。
オスカー・ワイルド。同性愛の罪で投獄されましたが。


グリム兄弟『おどる12人のおひめさま』

ある国に、美しい12人のおひめさまがいました。
おひめさまたちは、毎晩おへやで寝ているはずなのですが、毎朝くつが壊れています。
不思議に思ったおうさまは、この謎を3日で解いた者に12人のうち好きなおひめさまと王位の継承権をあたえるというおふれをだします。
何人ものおうじさまが謎に挑戦しますが、長姉のおひめさまからお酒をいただくと眠ってしまい、謎を解くことはできませんでした。
場所は変わって、足の悪い貧しい兵士が登場します。兵士は物乞いのおばあさんに乞われてなけなしのお金をめぐみます。兵士がおひめさまたちの謎に挑戦するつもりなのを聞くと、おばあさんは兵士に「おひめさまから賜るお酒を飲んではいけない。」という忠告と、着れば透明になれる上着を与えます。
兵士はおばあさんの忠告に従ってお酒を飲まず、寝たふりをしていると、おひめさまたちはベッドの下の秘密の抜け穴から地下へ入っていきました。兵士は透明になれる上着を着ておひめさまたちを尾行します。
途中、金の森や銀の森を通り過ぎるとき、兵士は枝を1本ずつ折り取って行きます。その音に気付いた末のおひめさまはそのたびに怯えるのですが、長姉のおひめさまは「気のせいです」と言ってとりあいません。
やがておひめさまたちは地下のお城に着き、12人のおうじさまたちと一晩中楽しく踊ってすごすのでした。
約束の3日が過ぎ、兵士は証拠の金の枝・銀の枝を見せながら王様に見てきたことを話します。
末のおひめさまは泣きだし、中のおひめさまたちは黙りますが、長姉のおひめさまは事実だと認めます。
謎を解いた兵士は、好きなおひめさまを与えると言われ、気丈な長姉のおひめさまを選びます。
2人は末永く幸せにくらしたそうです。

これが印象に残ってるのは、ひめの相手役が情熱に燃えるハンサムな若いおうじとかでなくて、それなりに年もとった傷病兵ってのももちろんなんですが、選ばれるのがセンシティブな末のひめじゃなくて胆の据わった長姉のひめだってところです。たいていこういう話でオイシイのは末っ子と相場が決まってますんで、けっこう意外性高いです。


『三年寝太郎』

長者の息子の太郎は、働かずに寝てばかりいて、周囲の者から「寝太郎」と陰口をたたかれていた。
寝始めて3年目、太郎は突然起きたかと思うと父に大量の新しい草鞋を用意するように言う。長者である父は、人々に草鞋を作らせる。
草鞋ができると、太郎は金山に赴き、古い草鞋を無料で新しい草鞋と交換すると言った。金山労働者たちは大喜びで使い古しの草鞋を持ってきて、新しい草鞋をもらっていった。
持ち帰った大量の古い草鞋を見て人々はあっけにとられたが、太郎の指示でその古草鞋を洗うと、泥の中から大量の砂金があらわれた。

ここまでしか記憶にはないので、それで太郎はお金持ちになりました、って話だとばかり思ってたんですが、実は「そのお金で灌漑水路を整備して水田を開墾し、村全体のために役立てた」って結末なんだそうです。
怠けて人を使って一山あてて大儲けかよ~ww、と思ってたけど、村全体を救うためなら村人動員も納得できました。


松谷みよ子『モモちゃんとアカネちゃん』

作者の長女が、自分が赤ちゃんのころのお話をして、と作者にねだったことにより書かれた『ちいさいモモちゃん』シリーズ。
第3巻の『モモちゃんとアカネちゃん』では、童話からハードな現実のメタファが感じられる表現が多く、子ども心にもすこし怖さを感じていました。

いはく、「パパの靴だけが帰ってくる。」
毎晩遅く、パパの会社からパパの靴だけが帰ってくるのです。パパ本体が帰ってくるのは、お客さんを連れてくるときだけです。
物言わぬ靴にご飯をすすめるのもお風呂をすすめるのも変なので、ママは毎晩その靴をていねいにていねいに磨くしかないのです。

いはく、「育つ木」と「歩く木」
森のおばあさんのところに相談に行ったママは、一鉢の木を見せられます。
鉢に植えられた木は二本。一本は「育つ木」、もう一本は「歩く木」。枯れかけています。
おばあさんは言います。「ママ」は「育つ木」であり、パパは「歩く木」である。「育つ木」と「歩く木」は、一緒の鉢には植えられない。植えれば枯れてしまう。と。
ママは、「歩く木」の枝にある、小さな寄生木に気づきます。


松谷みよ子さんといえば、たしか彼女が編集にたずさわった民話集で、以下のような話があったと思います。


『赤まんま』(題名もうろおぼえ)

※スプラッタ注意のため、折りたたみます。
 OKの方は、続きをクリックして読んでください。

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自分がジュギョウしたやつの区別がつかなくなってますが。

忘れられない! 国語の教科書のあの話

小学校…教育出版でした。

「ひとつの花」「川とノリオ」「雪わたり」等、定番の話は印象に残ってても割愛。
出典検索するのに苦労したり、結局わからなかったやつだけ書きます。

「とびこみ」(うろおぼえ・正式タイトルと作者名募集)
船長の息子がいたずらな猿に帽子をとられて追いかけているうちにマストのてっぺんまで上ってしまい、気が付くとものすごい高さに怖気づいて動けなくなってしまう。甲板に落ちたら間違いなく死ぬ高さで、だれも助けらない。そこへやってきた父親の船長は、とっさに息子に銃を向け、「すぐに海にとびこまなければ撃つ」と言う。息子は必死で海に飛び込む。息子が助けられたのを確認した父は、船長室で一人になって泣く。

佐藤さとる「壁の中」
兄妹が、子どものころに壁に貼っていた絵の思い出を話している。自分たちによく似た兄妹の絵で、大好きだったけど、今は新しい壁紙の下になってしまっている。話しているうちに、兄と妹でその絵の子どもが着ていた服の色の記憶が違うことに気付き、ちょっと言い争いになる。確認のために壁紙をはがしてみた二人は、その絵が実は……ああ、これ結末伏せます。未読の方は読んだ方がいいです。
読むほどではないけど知りたい方、読んだけど結末が思い出せなくて気になる方はご連絡いただければお知らせします。

安房直子「きつねの窓」
主人公は山か野原でキツネと出会い、客としてもてなされる。キツネに両手の親指と人差し指を桔梗で青く染めてもらい、その指でひし形の窓を作ってのぞくと、失った大好きな景色や懐かしい人が見える。その指を大事に思って青く染めたまま帰宅した主人公はいつも通り……これも伏せます。

どうも、「壁の中」とか「きつねの窓」とか並べていくと、子どものころから思い出の儚さとかに惹かれるところがあったらしいことに気付かされます。

中学校…教育出版。冒頭に書いたとおり、習ったのと教えたのが混在しててます。ここも、山川方夫「夏の葬列」とか横光利一「蠅」とかはめちゃくちゃ印象に残ってるけど割愛。


「さまよえる湖」…ロプノールの話
「幻の錦」…獅子狩文錦の話
別々の教材でしたが、このへんのものにシルクロードへの憧れを植え付けられたなぁ。
当時はマンガでも神坂智子のシルクロードシリーズとか、山田ミネコのハルマゲドンシリーズとか、壮大な背景設定の少女マンガがけっこうあって、好きでした。
自分が中学生の頃も、キョーインになってからもありました。
「獅子狩文錦」は、セイトが黒板にラクガキした「獅子狩りモンキー」で笑わせていただきました。
「さまよえる湖」は、教科書に載ってからもロプノールがさまよい続けてて、掲載年代によって結末が変わっちゃうのが面白かった。それが面倒で掲載すんのやめたのかな、とか思うことがあります。

「自転車の機能と形」…キョーインになってから読んだ教材です。
ものの形が、そのものの機能を最も果たしやすい形に定まっていくことを、自転車を例に説明する文章。構成が論理的で、一本筋が通っててわかりやすく、非常に好きでした。
これの次の「包む」が、文章は上手だし言いたいこともわかるんだけど話が思いつくままあっち行きこっち行きふらふらする感じで、けっこうイライラさせられまして。論理的文章は文筆家でなくて理系の人の書いた文章を教材に採用してほしいとつくづく思いました。
ところが、件の「自転車の機能と形」は周りのセンセイたちの評判が芳しくありませんで、どうやら自転車乗りにとっては周知の用語や実感を伴って理解できる記述が、そうでない方にとってはわかりにくかったらしいです。
教科書からはすぐに消えました。残念。

井上靖「晩夏」
漁村に避暑に訪れた、品の良い家の病弱な美少女。村の子どもたちは遠巻きに彼女を眺め、主人公であるガキ大将は配下の子どもをつかって他愛のないちょっかいをかけたりする。
これが印象に残っているのは、当時の自分の読解力では、主人公たちが美少女に対して持っているのが恋愛感情であることが全く理解できなかったためです。理解できなかったというより、思いもよらなかったという方が近い。
男子生徒には読み取れたんだろうか?

原田宗典「秘密」
質屋みたいな感じで、人の秘密を質草にお金を貸す「秘密屋」という店があり、主人公の少年はその「秘密屋」に自分の母親の秘密が売りに出されているのを知る。それが人目に触れる前に買い取りたいと思うが、貯金箱を壊してもお金は全く足りない。
話の内容自体もすごく深くて良かったのですが、なによりジュギョウでやったときにセイト達があまりにも『「秘密屋」の存在がフィクションであること』を読み取れなくてびっくりしたのが印象に残ってる作品です。同じ学年・教科を担当してる同僚にその話をしたところ、同僚はウケモチ学級で「秘密屋が実在すると思った人」と聞いてみたそうで、半分くらい手が上がってやっぱりびっくりしたそうです。
ある程度色んな本を読みなれてないと区別がつかないくらい、人物の気持ちや背景の描写がリアルだということかと思います。

星新一「人間的」
教科書って、こういうのも載るんだ~! 的な衝撃。こういうのばっかり載せてくれればいいのに、くらい思いました。でも、参考教材だった気がする。

レイ・ブラッドベリ「霧笛」
灯台の霧笛に誘われて、海の底から一頭の首長竜がやってくる。霧笛ははるか昔に聞いた、仲間の声に似ていた。
彼の気の遠くなるような長い長い長い孤独の時間を思わずにはいられません。

高校…角川書店だったのは、その高校の先生がその教科書の編集やってた関係だと思われます。奥付に見慣れた名前見てひっくり返った記憶が。

堀辰夫「麦藁帽子」
これも恋愛の話だと自力では理解できなかった系の話。「髪を洗ったあとのようないやなにおい」というのがよくわからなかったのですが、それにたいする現国の先生の「女のにおいだ」という解説が非常に衝撃的でした。

葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」
たぶん、自分が教科書で読んだ文章の中で、もっともインパクトの強かった作品。
高橋葉介の「腸詰工場の少女」って、もしかするとこれの影響があるのかなぁ?

中島敦「山月記」
これは、この年代の少年少女が真剣に自分自身のこととして読む部分と、あまりに身につまされるためにちょっと茶化したくなる部分があったかなぁ。
仲間内で、「○○さんは、自身の××という性情のために△△に変身する」ような話をして遊んだ気がします。
幾狭さんは、「自身の怠惰な性情のためにパンダに変身する」でした。
以前の日記にも書いたことがあったと思いますが、現住所の町には本屋がありません。
サッポロに住んでいたころにはよっぽどのことがないかぎり利用することのなかったAmazon(※ネットでモノを買うのは基本的には怖い)に、さんざんお世話になっております。

先日、ふと思い立って、子どものころに愛読していた児童文学作家の名前で検索をかけました。
だいぶ前に新刊を見かけたのですが、そのときに買い損ねていたのです。
だいぶ前もだいぶ前で、その本の発行年をみると、1996年でした。
古書の方にしかありません。

状態「良」のものを物色していたら、「コレクター商品」となっているもので、「良」のものと値の変わらない出品がありました。
コレクター商品なら、古書といっても状態はいいだろうと思い、それを注文しました。
その本が届いたのが一昨昨日の話です。

ぱらっとめくりかけて、凍りつきました。

遊び紙のところに、非常に特徴的な手書きの文字で
「森 忠明」
と書かれていたのです。

一気に心拍数が上がりました。

あわてて伝票を確認したら、たいへん細かい文字で、以下のように書かれていました。


「コレクター商品:著者自筆サイン入り






















うぉぉぉぉ~~~~~!!

嬉しいけど心臓に悪いよう~~~~~~!!!

ああびっくりした。


森忠明という人は、たぶんワタクシが最初にハマった作家だと思います。
自分にとって「同じ作者の本を求めて読む」という行為の対象となった最初の作家。
たしか、小学校の4~5年生のころのことでした。

子ども時代のワタクシの本の与えられ方は、普通とかなり違っていたんじゃないかと思います。
ワタクシの父は、ほっかいどのガッコウトショカンキョーカイのエラい人だったので、児童書の出版社から新刊が続々と送られてきます。
父の読み終わった本が段ボールに2箱とか3箱とかたまると、そのまんま我々姉弟のところにおさがりにくるのです。
読んでみて気に入ったのは自分の本棚に入れて、あとは父に返します。
我々の本棚は、常に気に入った本であふれておりました。

父と同じくらい活字中毒の母が、よく我々に言っていました。
「あんたたち、あんまり本を読まないよね。有りすぎると、かえって読まないもんなのかな。」

……うん、まあ、とーさんやかーさんほどは読んでないですよ。たしかに。


そんなわけで、本の段ボールが回ってくると、真っ先に探したのが、森忠明の本でした。

そんなふうにむぞーさに本を投げ与えていた父ですが、どちらかというと自分の子に森忠明はあまり読ませたくはなかったんじゃないかと思われます。別に読んでもいいけど奨励したくはないというか。

現在、当時の父と同じ職業についてみて、そんな心境になるのもわかるような気がします。

なぜかというと、この人の作品は、ほとんど「不登校だった小学生時代の著者」が主人公だからです。

ワタクシは職業柄、子どもには何事にも前向きに全力で取り組んでほしいと願っております。
昼休みに体育館で力いっぱい遊んでいる連中のことは大好きだ。
しかし、昼休みに教室で本を読んでいたり絵を描いていたりするやつらに対する共感は大きいです。

今のウケモチガッキューは、なにか行事があるとみんなで楽しんでみんなでがんばってくれているんですが、
それでもアノコとコノコは、ちょっと違和感を感じつつもなんとか周囲に合わせてがんばっていたりして、けっこう疲れていることも多いかな、とか、そーゆーのがないわけではないのです。

そーゆー、ちょっとお疲れぎみの子が読んだりすると、なんか救われるものがあるかもしれない。
今現在、前向きに力いっぱいがんばって楽しんでいる子には、あえて読ませたくはないかもしれない。

さらに、その辺の「こーゆー子には薦めて、こーゆー子には読ませたくない」という先入観から恣意的な態度に出るのもよろしくないと考えられるので(小学生時代のワタクシはわりと元気いっぱいのお子様だったはずだ)、結局のところこの作家の作品について子どもたちに積極的なはたらきかけをしたことはないです。
たまたま図書館担当になったときに、この人の作品を入れたりとかはあります。
選ぶか選ばないか決めるのは子ども。
現在のところ、そんなスタンスで向き合っている作家です。

その割には、実家を出るときに、森忠明の本は全部持ってきていて、今も自宅の本棚の特等席にあったりします。




なんだか自分の中に二重の基準があるなぁ、と思います。

最初に自分はどうやらこの作家が好きらしいと意識した本が『悪友物語』だったのですが、
主人公の語りに
「おこづかいを三角定規買うのに使うのも、たこ焼き買うのに使うのも、あたしたちの自由だと思う。」
というのがあって、小学生だった当時のワタクシは(自分は買い食いなんかしない子だったにもかかわらず)ものすごく共感したのです。
現在の自分は、理屈でこの言い分を粉砕できます。
にもかかわらず、今でもやっぱり、この言い分に共感している部分があるのです。

粉砕しちゃうのは職業柄。
共感しちゃうのは個人的に。

久しぶりに森忠明を再読したら、自分がいかにキョーインに向いてない人間か、という近年忘れかけていたというか、常に意識しているけど気付かないことにしている事実を思い出すなぁ。
だからといって、仕事やめたりするようなことは微塵も考えませんけどね。
適正なんぞ無くても、俺はやるぜ!!(←無駄に前向き)
というわけで、大人になるって、繊細さの欠如の進行みたいなとこがあります。

ああ、その「繊細さの欠如の進行」がストップしちゃってるのが森忠明なのか。


今回購入した本は、
森忠明『小さな蘭に』
でした。

エッセイです。

(以下、少々ネタバレがありますので、たたみます。)



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最初に山口貴由の『シグルイ』を書店で見かけたとき、かなり迷ったのだが結局買わなかった。

山口貴由は『覚悟のすすめ』を読んで以来すごく好きな漫画家だが、彼の絵にというよりも、異様にテンションの高いストーリーとか激しく濃いキャラクターとかヘンな世界観とかに惹かれていたので、原作つきの『シグルイ』には二の足を踏んだのである。

その後、『シグルイ』は原作とはかなり違っていて、登場人物の特異な設定はほとんど山口の脚色であるという話をきき、購入に至った。
読んでみると、『シグルイ』は、原作つきでありながら『覚悟』以上に山口貴由的な世界が展開していて、すっかりハマってしまった。

そうなると、原作の『駿河城御前試合』が『シグルイ』とどう違っているか、というか、山口貴由が原作をどういうふうに料理したのかが知りたくてしょうがないわけなのだが、当時原作の方は絶版になっていた。
噂で「虎眼先生は、原作では六指でもないし、曖昧な状態になってもいないらしい」とか「牛股師範が三重様の婿候補から外されているのは、『自分で素手による去勢をしたから』ではなく、『妻帯者だから』らしい」とかいう話だけは聞こえてきて、気になって気になってしょーがなかったんである。
なんとか『シグルイ』人気で再版されないかなぁ、と、ずっと思っていた。

と、思ってたら、先日、『新装版 駿河城御前試合』を書店で見かけて、もちろんそっこー買いである。
新装版のカバーイラストは、あんのじょう山口貴由だった。

読んでびっくり、あらすじと主な登場人物以外、ほとんど山口貴由のオリジナルじゃないですか。
前髪の美少年・涼之介くんも、ちゅぱ右衛……九郎右衛門も、双子の舟木兄弟も原作に全然出てこなくてびっくりしたよ。
あの「ぬふぅ」なシーンとかは脚色だろうとは思ってたけど、まさかあの双子の存在自体が山口の創作だったとは。
舟木兄弟で原作に出てるのは(シグルイでは「第三子」の設定の)お千加さまだけで、それも豪放な女剣士の面影はみじんもない(ついでに言えば半陰陽らしい描写も全くない)ふつうのお嬢だし。
いやワタクシ、『シグルイ』の中で屈木頑之介を婿候補の末席に加えちゃったことに抗議してお千加さまがお父上の愛馬をブン投げるシーンとか大好きなんですが(馬はかわいそうだけどそれはそれとして)、もちろん『駿河城』の方ではそんなシーンありません。お千加さまはイヤそう~な声でお父上に抗議するだけ。

でも、頑之介がお千加さまの寝所の床下に毎晩忍び込んで気配をうかがっているのは、実は原作どおり。
やっぱり『シグルイ』のなんだかよくわからないけど過剰な山口貴由的何かを構築するもとになっているものは、『駿河城御前試合』の中にしっかり存在しているのである。
さすが山口が「この作品をぜひ自分の手で漫画化したい」と願っただけのことはある。

たとえば、『駿河城御前試合』の中の一編「被虐の受太刀」の主人公・座波間左衛門は、剣豪でありながら「美貌の男女に切りつけられることにより無上の快楽を得る」という因果な性癖の持ち主だったりする。
間左衛門は今のところ『シグルイ』に出てきてはいない。しかし、なんだかものすごく山口貴由的なキャラクターではないかと思う。

『シグルイ』は『シグルイ』で面白い。
『駿河城御前試合』はそれとはまた違った面白さがある。
しかも両者は根底ではなにかが共通している。
そんなふうに思ったのであった。
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